INICIAR SESIÓN一週間は、前回よりもずっと長く感じられた。
透は、毎日のように神谷のことを考えていた。 仕事中、ふと手を止めては、あの静かな瞳を思い出す。 昼休み、公園のベンチに座りながら、あの落ち着いた声を思い出す。 (これって、もしかして……) 透は、その可能性を考えかけて、すぐに打ち消した。 (ありえない。ただの医者と患者だ) でも、心の奥で、小さな声が囁いていた。 ──本当に、それだけ? 金曜日。 また、診察の日がやってきた。 透は、いつもより早めに仕事を切り上げた。 「また病院?大丈夫?」 田中が心配そうに聞いてきた。 「はい、経過観察なので」 「そっか。お大事にね」 透はオフィスを出て、駅へ向かった。 今日は晴れていた。 春の陽射しが、頬に心地よい。 透は、なぜか少しだけ緊張していた。 また、神谷に会える。 その事実が、透の胸を少し高鳴らせていた。 クリニックに着くと、待合室にはいつもより人が多かった。 受付で名前を告げると、看護師が申し訳なさそうに言った。 「すみません、今日は少し混んでいまして。三十分ほどお待ちいただくことになりそうです」 「あ、大丈夫です」 透は待合室の椅子に座った。 でも、三十分は長い。 透はスマホを取り出したが、メールをチェックする気にもなれなかった。 (どこかで時間を潰そうかな) 透は立ち上がり、受付に声をかけた。 「少し外に出てきます。時間になったら電話いただけますか?」 「はい、承知しました」 透はクリニックを出て、近くを歩いた。 このあたりは、透の職場からは少し離れているけれど、静かで落ち着いた雰囲気の街だった。 小さな書店、雑貨屋、カフェ。 透は、その中の一軒のカフェに目を止めた。 「Café Lumière(カフェ ルミエール)」 シンプルな看板。 窓から中を覗くと、木のテーブルと、温かい照明。 客は少なく、静かそうだった。 透は、そのカフェに入った。 店内は、外から見たよりも広かった。 奥にカウンター席があり、手前にテーブル席がいくつか並んでいる。 透は、窓際の席に座った。 メニューを見て、ホットコーヒーを注文した。 しばらくすると、店員がコーヒーを運んできた。 透はカップを手に取り、一口飲んだ。 苦味と香りが、口の中に広がる。 (……落ち着く) 透は、窓の外を眺めた。 通りを歩く人々。 ゆっくりと流れる時間。 こういう場所に来るのは、久しぶりだった。 いつも、コンビニで買ったコーヒーをデスクで飲むか、立ち飲みの店で慌ただしく流し込むか。 ちゃんと座って、ゆっくりコーヒーを味わうなんて。 (いつから、こんな余裕もなくなってたんだろう) 透は、自分の生活を振り返った。 仕事、家、仕事、家。 その繰り返し。 誰かと食事をすることも、どこかへ出かけることも、ほとんどなくなっていた。 友人からの誘いも、いつの間にか断るようになっていた。 (……寂しいとか、思ってなかったけど) 透は、コーヒーカップを両手で包んだ。 (本当は、寂しかったのかな) その時、カフェのドアが開く音がした。 透は何気なく顔を上げた。 そして、息を呑んだ。 入ってきたのは──神谷だった。 神谷は、私服だった。 黒いコートに、グレーのセーター。 白衣を着ていない神谷を見るのは、初めてだった。 神谷はカウンターで注文をしている。 透は、声をかけるべきか迷った。 でも、喉が渇いたように声が出なかった。 神谷は、コーヒーを受け取り、店内を見回した。 そして——透と目が合った。 神谷の目が、わずかに見開かれた。 透は、慌てて立ち上がった。 「あ、あの……」 神谷は、少し驚いた顔のまま、透に近づいてきた。 「……朝倉さん?」 「はい。こんにちは」 「こんにちは」 神谷は、少しだけ戸惑ったような表情をした。 「こんなところで会うとは……偶然ですね」 「はい……あの、今日、予約を入れていたんですが、少し時間があったので」 「ああ、そうでしたか」 短い沈黙。 透は、次の言葉を探した。 神谷も、何か言おうとして、口を開きかけて、閉じた。 「……あの」 ふたりが同時に声を出して、顔を見合わせた。 透は、思わず笑ってしまった。 神谷も、小さく笑った。 それは、透が初めて見る、神谷の笑顔だった。 「よろしければ……」 神谷が、透のテーブルを見た。 「ご一緒しても?」 透の心臓が、大きく跳ねた。 「あ、はい。どうぞ」 神谷は、透の向かいに座った。 ふたりの間に、テーブルひとつ分の距離。 診察室よりも近く感じられた。 「ここ、よく来るんですか?」 透が、沈黙を破って聞いた。 「ええ。クリニックの帰りに、時々」 神谷は、コーヒーカップを手に取った。 「静かで、落ち着くので」 「分かります。僕も、入ってすぐそう思いました」 「そうですか」 神谷は、小さく微笑んだ。 透は、その表情に少しドキッとした。 診察室で見る神谷とは、どこか違う。 表情が、柔らかい。 まるで、仕事のスイッチを切ったような。 「朝倉さんは、このあたりには普段来ないんですか?」 「はい、職場が反対方向なので」 「そうですか」 神谷は、窓の外を見た。 「でも、いい街ですよ。静かで」 「神谷先生は、この近くに?」 「ええ、歩いて十分ほどのところに」 透は、神谷が「この街」に住んでいることを知った。 それが、なぜか嬉しかった。 「お仕事は……大変ですか?」 透が聞くと、神谷は少し考えるような顔をした。 「そうですね。でも、慣れました」 「毎日、たくさんの患者さんを診るんですよね」 「ええ。でも……」 神谷は、コーヒーを一口飲んだ。 「みんな、違う悩みを持っている。だから、飽きることはないです」 「なるほど」 透は、神谷の横顔を見た。 窓から差し込む光が、神谷の顔を優しく照らしていた。 (この人、本当に綺麗な顔してるな) 透は、そう思って、慌てて視線を逸らした。 「朝倉さんは、お仕事、楽しいですか?」 神谷に聞かれて、透は少し驚いた。 「……どうでしょう」 透は正直に答えた。 「楽しい、っていうより……やらなきゃいけないから、やってる感じです」 「そうですか」 神谷は、透を見た。 その視線は、診察室で見るものとは違っていた。 医師としてではなく、ひとりの人間として、透を見ているような。 「でも、最近は……」 透は、言葉を続けた。 「少し、変わってきた気がします」 「どんなふうに?」 「先生に言われた通り、休憩を取るようになって。遠くを見るようにして」 透は、窓の外を見た。 「そしたら、いろんなものが見えてきた気がするんです。木とか、空とか……今まで、全然見てなかったものが」 神谷は、黙って透の話を聞いていた。 「それで、なんか……世界が、少し広くなった気がして」 透は、照れくさそうに笑った。 「変なこと言ってますよね」 「いいえ」 神谷は、静かに言った。 「とても、いいことだと思います」 その声には、確かな温かさがあった。 透は、胸が熱くなるのを感じた。 (ああ、ダメだ) 透は、気づいてしまった。 自分が、神谷に惹かれていることに。 この人の声を、瞳を、存在を。 求めていることに。 「……朝倉さん?」 神谷の声で、透は我に返った。 「あ、すみません。ぼーっとして」 「大丈夫ですか?」 「はい、大丈夫です」 透は、スマホを確認した。 時間は、予約の十五分前。 「そろそろ、戻らないと」 「そうですね」 神谷も、時計を見た。 「私も、そろそろ行きます」 ふたりは立ち上がった。 レジで会計を済ませ、店を出る。 外は、少し風が出ていた。 「では、また後ほど」 神谷が言った。 「はい」 透は頷いた。 神谷は、クリニックとは反対方向へ歩き出した。 透は、その背中を見送った。 (……また、会える) そう思うと、胸が温かくなった。 透は、クリニックへ向かって歩き出した。 春の風が、優しく頬を撫でた。 診察室で、透は神谷と再び向き合った。 さっきまで、カフェで隣り合っていたのに。 今は、医師と患者として。 その距離感が、透には少し切なかった。 「では、診ますね」 神谷の声は、いつも通り淡々としていた。 でも、透には分かった。 さっき、カフェで見せた表情。 あれが、本当の神谷なんだ。 透は、神谷の瞳を見つめた。 神谷も、透を見つめ返した。 診察という名目で。 でも、その視線の奥に、何か別のものが宿っている気がした。 (この人も、何か感じてるのかな) 透は、そんなことを考えた。 でも、すぐに打ち消した。 (まさか。考えすぎだ) 診察が終わり、透は診察室を出た。 振り返ると、神谷がこちらを見ていた。 一瞬だけ、視線が交わった。 そして、神谷は小さく微笑んだ。 透の心臓が、また大きく跳ねた。 その夜、透は自分のアパートで、カフェで飲んだコーヒーの味を思い出していた。 そして、神谷の笑顔を。 あの、柔らかい表情を。 (会いたいな) 透は、初めてそう思った。 診察としてではなく。 ただ、会いたい。 話がしたい。 もっと、この人のことを知りたい。 その気持ちが、もう止められないことに、透は気づいていた。三年後──春の陽射しが差し込むカフェ。透と神谷は、窓際の席に座っていた。「ここ、本当に久しぶりだね」透がカフェラテを一口飲みながら言った。神谷も周囲を見渡して、懐かしそうに微笑んだ。「ああ。最初に、医師と患者以外の関係で話したのが、ここだった」「神谷さん、あの時すごく驚いた顔してたよね」「そうだったか?」「うん。『こんなところで会うとは』って顔してた」神谷は少し照れくさそうに笑った。「確かに、驚いた。偶然だと思っていたから」「俺も」透は窓の外を見た。「でも、今思えば、あれは偶然じゃなかったのかもしれない」「運命、とでも?」「うん」透は神谷を見つめた。「運命だったんだと思う」神谷の目が、優しく細められた。「……俺もそう思う」ふたりは、しばらく静かにコーヒーを楽しんだ。カフェには、穏やかな音楽が流れている。平日の午後、客はまばらで、ゆったりとした時間が流れていた。「そういえば」神谷がふと思い出したように言った。「透、今日は仕事休みだったのか?」「うん。有給取ったんだ」「何か特別な用事でも?」
◆春 桜の花びらが舞う、三月の午後。 透と神谷は、あの小さな公園を訪れていた。 出会ってから、もう二年が経とうとしていた。 「ここ、久しぶりだね」 透がベンチに座りながら言った。神谷も隣に腰を下ろす。 「そうだな。最後に来たのは……いつだったか」 「去年の夏だったかな」 透は空を見上げた。 「あの時は、すごく暑かったよね」 神谷は微笑んだ。 「透が、アイスを三本も食べた日だ」 「神谷さんだって二本食べたじゃん」 ふたりは笑い合った。 公園の桜は、満開だった。風が吹くたびに、花びらが舞い散る。 透は一枚の花びらを手のひらで受け止めた。 「綺麗だな」 「ああ」 神谷は透の横顔を見つめていた。桜色の光に照らされた透の顔は、穏やかで、幸せそうだった。 「透」 「ん?」 「今、幸せか?」 透は神谷を見て、少し驚いたように目を見開いた。それから、ゆっくりと笑った。 「うん。すごく」 神谷の表情が
同棲を始めて半年が過ぎた、秋の夜だった。透がキッチンで夕食の準備をしていると、リビングから神谷の声が聞こえた。「透、ちょっといいか」いつもより少し、硬い声だった。透は手を拭いてリビングに戻ると、神谷がソファに座って、何かのパンフレットを手にしていた。「どうしたの?」透が隣に座ると、神谷は少し躊躇うように視線を落としてから、パンフレットを差し出した。「パートナーシップ制度について」表紙にそう書かれた、市区町村が発行している案内だった。「これ……」透の声が、少し震えた。神谷は透の横顔を見つめながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。「この前、クリニックの患者さんで、パートナーシップ証明書を持っている方がいたんだ。ふたりで受診に来られて、とても自然に、お互いを支え合っていた」神谷の声は、静かで、でも確かな意志を含んでいた。「それを見て……俺も、透と、そういう関係でいたいと思った」透はパンフレットを手に取り、ページをめくった。パートナーシップ制度の説明、申請方法、必要な書類。活字が、透の視界に入ってくる。「法的な効力は限られているけど」神谷が続けた。「病院での面会や、賃貸契約での同居人証明、いろいろな場面で、ふたりの関係を証明できる」透は、パンフレットを握りしめた。「……神谷さん」「嫌なら、無理にとは言わない。ただ、俺は――」「嫌なわけない」
八月。 夏の暑さが、東京を包んでいた。 透と神谷は、それぞれの仕事で忙しい日々を送っていた。 ある週末の朝。 透は、珍しく早く目が覚めた。 隣で、神谷がまだ眠っていた。 穏やかな寝顔。 透は、その顔をじっと見つめた。 (この人と出会って、もうすぐ二年になる) 透は、そう思った。 あの日、眼科を受診したことから、すべてが始まった。 視線を逸らしていた自分。 本当の自分を隠していた自分。 でも、神谷と出会って、変わった。 透は、そっとベッドを出た。 キッチンへ行き、コーヒーを淹れる。 リビングに戻ると、神谷が起きていた。 「おはようございます」 神谷が、眠そうに言った。 「おはようございます」 透は、コーヒーカップを差し出した。 「ありがとう」 神谷は、カップを受け取った。 ふたりは、ソファに並んで座った。 「朝倉さん」 神谷が、コーヒー
七月の第一土曜日。 佐藤と美咲の結婚式の日がやってきた。 透と神谷は、朝から準備をしていた。 「このネクタイ、どうでしょうか?」 神谷が、鏡の前で聞いた。 「いいと思います」 透は、自分のスーツを着ながら答えた。 「先生、似合ってますよ」 「ありがとう」 神谷は、少し照れた。 「あなたも、素敵です」 ふたりは、鏡の前に並んだ。 スーツ姿のふたり。 「緊張しますね」 神谷が、言った。 「はい」 透も、頷いた。 「でも、楽しみです」 「公の場で、カップルとして出席するのは……」 神谷の声が、少し震えた。 「初めてですね」 透は、神谷の手を取った。 「大丈夫ですよ」 透は、微笑んだ。 「佐藤の友達は、みんないい人たちです」 「はい……」 神谷は、深呼吸をした。
五月に入った。 新緑の季節。 透と神谷の生活は、相変わらず穏やかだった。 でも、神谷の中には、ひとつの決断が芽生えていた。 ある夜、神谷は遅く帰ってきた。 「ただいま」 神谷の声は、少し疲れていた。 「おかえりなさい」 透は、キッチンから顔を出した。 「遅かったですね。大丈夫ですか?」 「はい……」 神谷は、ソファに座り込んだ。 透は、神谷の隣に座った。 「何かあったんですか?」 神谷は、少し迷うような顔をした。 そして、口を開いた。 「実は……榎本院長から、話があって」 「どんな話ですか?」 「新しいクリニックを、もうひとつ開きたいと」 神谷は、透を見た。 「そこの、院長になってほしいと言われました」 透の目が、大きく見開かれた。 「院長……?」 「はい」 神谷は、頷いた。 「僕に、任せたいと」







